あぼいどのーと

インターネット初心者

すべての文章はパクリである

 僕の趣味のひとつに「耳コピ」がある。既存の曲を聴いて、その構成音を一音一音コピーして忠実に再現したMIDIデータ(楽譜のようなもの)を作成するというものだ。いわば"模写"の音楽版である。

 

 その耳コピのクオリティには結構自信があるのだが、しかし一転、オリジナルの楽曲を作ろうとおもうと、これが全然うまくいかない。断片的なメロディーやリズムは浮かぶのだが、ひとまとまりの音楽として完成しないのである。

 

 その理由をぼんやりと考えていたところ、ひとつのアイデアが浮かんだ。僕のように普段からコピーばっかりしていると、いざオリジナル楽曲を作ろうとしたときに「コピーじゃないものを作らないといけない」という意識が強く出てしまい、フレーズが閃いたとしても「これはあの曲に似てるからダメ!」と自己否定してしまうのだ。要するに、自分の楽曲がなにかの「パクリ」になることをあまりにも神経質に避けているのである。

 

 しかし実際には、既存のどんな曲にも似ていない「完全にオリジナルな音楽」というのは存在しない。意識している・いないにかかわらず何かの曲には似てしまうものだし、無理矢理にでも探そうと思えば、「パクリ」のような部分はいくらでも見つかる。僕はそんなあたりまえの事実を、コピーに没頭しすぎるあまり忘れていたのかもしれない。実際にはめちゃくちゃに曖昧な「オリジナル」と「コピー」の領域のあいだに、地図上の国境のような人工的で直線的な境界線を引いてしまっていたのだ。

 

 

 これは音楽にかぎった話ではなく、文章にも同じことが言える。「完全にオリジナルの文章」「他の誰とも似ていない文体」というのはあり得ない。すべてのコピーから分断された理想のオリジナルを求めてしまうと、結局なにも書けなくなる。

 それならいっそ、自分の文章のなかに「コピー」「模倣」「パクリ」の部分がふんだんに含まれていることを許容してあげたほうがよい。へたにオリジナルを追い求めず、先人の知恵や技術のつまった文章を積極的に真似ていったほうがよいのだ。

 

 僕は最近、文章を書いてもうまくまとまらないことで悩んでいるのだが、それもきっと「オリジナル」へのまちがったこだわりが出てき始めているからだろう。実際、浅田彰蓮實重彦吉本隆明の文体を真似て書いていたころのほうが、よっぽどよどみなく筆は進んだ。だから、オリジナルへのこだわりを捨てて、いっそ「すべての文章はパクリである」くらいの大見得を切ってもよいころなのかもしれない。

 

 この文章もそんなにうまくは書けていない。その証拠に、どのようにまとめてどのように終わらせるかの目処が立たない。これはたぶん見切り発車のせいだと思うが、それならもう見切り発車にふさわしい急停車で終わろうと思う。おしまい。