あぼいどのーと

インターネット初心者

海外の「ゲーム音楽研究」についてまとめてみる vol.0.01

 昨日も言ったけども、僕は自分で納得のいく「ゲーム音楽論」というのを書いてみたい。サウンド分析とか音楽理論といった外的な形式に頼ることなく、あくまでも僕の中にある「ゲーム音楽」の記憶と感触を言語によってありのままに表現したい。「ゲーム音楽」の世界の楽しさ・素晴らしさを世界中に伝播させたい。

 とはいえ、全くの独力で書き進められるほどの才能も知識も経験もない。というか、もし何にも頼らずに書けたとしても、その営為は"独力"ではなくたんなる"独断"に堕すだろう。まあ、僕だけが楽しくなる自慰的な文章ならそれでもいいわけだが、人にお見せするにはせめて少しでも体裁を整えておきたい。

 ということで今日は、その下準備というか、「専門家はどんなことを考えとるんじゃい?」ということを確認するために、大学や研究機関によって学術的に研究されている「ゲーム音楽」というものについてまとめてみたいと思う。

 

 しかし実は、「ゲーム音楽学」に関する日本語で読める情報というのは意外にも少ない。というか、ほぼない。少なくともネット上には。これは日本語話者にとってはかなりの痛手であり、仕方なく海外の情報を引っ張ってこざるを得ないのだが、英語の文献を何の予備知識もなしにいきなり読み込むというのはハードルが高い。

 

 だからまずは、ゲーム音楽研究機関のポータルサイトだったり英語版Wikipediaだったりといった比較的アクセスしやすく読みやすい情報をソースにして、「ゲーム音楽研究って大体こんな感じ」というざっくりした概要をまとめることにしたい。目標としては、「そもそも研究対象は何か」「なぜ研究しているのか」「どこどのように研究が進められているのか」「キーワードは何か」といった基本的な問いに答えられるようになりたい。そしてそこからオリジナルの「ゲーム音楽論」を出発させたい。

 

 (以下、僕個人の情報収集能力にすべて委ねられたまとめとなるので、疑わしいという方はご自身でソース元に当っていただきたく思う。)

 

 

 先ほど「日本語で読める情報がほぼ無い」と書いたが、全く無いわけではない。4年ほど前に書かれた次のエントリーは、「日本のゲーム音楽研究の遅れ」をズバッと指摘しつつ、海外の主要文献を紹介してくれている。

gamemusixbgm.hatenablog.com

 

 ここに、第一のキーワードとして「diegetic/non-diegetic」という概念が登場する。日本語訳は適切なのが見当たらないので、とりあえずカタカナで「ダイジェティック/ノンダイジェティック」としておく。他の情報をいろいろ漁った限りでも、どうやらこの対立概念こそがかなり重要っぽい雰囲気なので、まず抑えておくべきだろう。

 

 ではこの「ダイジェティック」と「ノンダイジェティック」の違いはなにか。

 

 簡単に言えば、「物語世界の内側か外側か」というのがその答えである。

 「ダイジェティック」というのは、「スーパーマリオ」ならマリオたちのいる世界(キノコ王国)、「ドラクエ1」なら勇者たちのいる世界(アレフガルド)のことを指す。要するに、キャラクターが住まう世界が「ダイジェティックな世界」であり、そこで聴こえる音が「ダイジェティックな音」ということだ。声や足音、川のせせらぎなんかがそうである。

 一方、「ノンダイジェティック」はその否定である。ということは「キャラクターが住まう世界ではない世界」を表しており、普通それは(ゲーム音楽研究の文脈では)「ゲームをプレイする私たちの世界」を指し示す。すると「ノンダイジェティックな音」というのは、ゲーム内のキャラクターには聞こえず、プレイヤーである私たちだけが聴き取ることができる音である、ということになる。

 

 ゲームの場合、文学や映画と違って叙述的でない、つまり「世界観の表現に終始しない」情報というのがどうしても必要になる。ステータスウインドウやカーソル、メニュー画面などがそうである。そしてその操作に付随する音が「ノンダイジェティックな音」の代表例なのだ。 

 

 これがたぶん教科書的な説明であり、僕も概ねこのように理解している。

 

 ……しかし! この説明にはちょっと注意が必要かもしれない。ということに今気づいた。

 なにやら「ダイジェティック/ノンダイジェティック」という概念は、ただ単に「ゲームの世界で鳴ってる」「ゲーム外の世界で鳴ってる」という、いわゆる「キャラクター/プレイヤー」とか「内在/超越」、「ベタ/メタ」といった次元概念とはちょっと事情を異にする気配が漂っているからである。

 というのも、この「ダイジェティック論」を軸に据えて生成された「IEZAフレームワーク」(詳細は後述)という分析手法について説明した英語版Wikipediaを読むと、ダイジェティックなサウンドに関して「その音はゲーム世界で実際に鳴っているか」とか「キャラクターが聞き取れるか」というある種のバーチャルリアリティに必ずしも立脚していない気がするからである。

 むしろそこでは、サウンドはサウンドとして一元的に生成されるもの(たんにスピーカーから鳴るもの)として理解した上で、その生成の先でサウンドが「ゲームの世界観を説明するための音」とか「プレイヤーの感情を煽るための音」といった形で聴き分けられるその目的論的な分岐にこそ重心が置かれているようなのである。これは人間中心主義というか、クリエイター/プレイヤー中心主義ともいえるかもしれないが、とにかくあくまでも機能的にゲーム音楽を分析しているわけで、たとえば「ゲーム内でキャラクター達が楽団を組んで演奏している。これはゲーム世界でも実際に聞こえているからダイジェティックだな」とかいう話ではないのである。

 じゃあどういうことかといえば、その発生源が何であろうととにかく音は音として、一体その音をそこで鳴らす根拠は何なのか、「この街はこんな雰囲気ですよ」と表現したいのか、「何か危険が迫ってますよ」と伝えたいのか、前者であれば「ゲーム世界」に視線が向けられているから「ダイジェティック」であり、後者であれば「プレイヤー」に視線が向けられているから「ノンダイジェティック」、という感じみたいだ。

 クリエイター(サウンドデザイナー)が「雰囲気を表現したいのか」「メッセージを伝えたいのか」。「ダイジェティック/ノンダイジェティック」なのはあくまでもその目的なのである。なんか吉本隆明の「自己表出/指示表出」っぽい。

 

 こうした目的論的な分析は、どれだけゲームの世界に没入Immersion)できるか、という次の目的へと差し向けられる。この「没入」というのもかなり重要なキーワードなのだが、それは次の機会に触れることにする。

 

 さて、「ダイジェティック論」の説明(解釈)だけでかなりの熱量をかけてしまったのでここで一旦切り上げる。今日のまとめはちょっと勢いで書いてしまったので僕の誤解(というか想像の暴走)が混じっている可能性が高いが、まあまたアップデートすることにする。そしてこうした理論はあくまでも分析と制作のためのものであり、「ゲーム音楽」の素晴らしさはこれだけでは尽くせないわけなので、そのへんも追々書いていくことにしたい。おわり。